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2011年8月9日

資本主義崩壊後の世界

今日のランチは久々に「すき屋」に行った。

そこのお店は少し前まで改装中で休業していたので、店の感じが変わったのはいいが、食器まで変わっていた。
店内で食べるのも使い捨ての紙の容器。

確かに効率を考えれば使い捨ての方が手間はいらず、人も少なく済む。
安くするための対策はわかるが、もう50円高くても使い捨てではない容器で食べたい、使い捨てであることにゴミが増えるという罪悪感を感じるのは自分だけだろうか?

まったく話が変わるが、震災以降、原発がある地域では存続か停止かで各地が揺らいでいる。
また違う話で、被災地支援のための高速無料を悪用というか本来の趣旨とは違う使い方して近隣に迷惑をかけているという問題がある。

すき屋から始まった原発、高速の話には共通点がある。それは、すべてがお金と天秤にかけているということ。

お金が汚いものだとは思わない。必要なものだし、あればあるに越したことはない。
お金があるから物々交換をしなくても済むし、大変便利なものだと思う。

でも、もしお金が絡まなかったら、本当はこうしたい、本当はこうあるべきだというものを、お金と天秤にかけて、お金を選ぶこと、お金を選ぶ人が多いから世の中に諦めや矛盾を生み出しているような気がする。

本来お金というのは道具に過ぎない。お金自体に価値があるわけではなく、お金の反対側にある物や事に価値がある。
おいしい物、便利な物、楽しませてくれる事、心地よくしてくれる事、幸せな気分にしてくれる事、そういう物事に対してその価値を表す基準としてのお金である。

喜びや幸せの対価がお金であっても、犠牲や我慢をする対価がお金ではいけない。
それは結局、お金に負けている、お金の奴隷になっているという事だと思う。

資本主義の崩壊とは、お金に価値がなくなるということではない。
お金:何かが基準ではなく、価値:お金という風に、価値が基準になるということ。

世界同時株安・円高と騒いでいるが、幼稚園の子でも知っている大切な物事が価値の基準になる世の中にならない限り、今の不安定な世の中が収まることはない。
世界がそんな方向に動くかどうかはわからない。世間知らずな人間の戯言なのかもしれない。
でも、自分は誰かの役に立ったり、誰かを喜ばせたり、誰かを幸せにする人が尊ばれる世界で暮らしたいと思う。

今日もそんな世界につながる行動ができたかな?

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