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2009年12月7日

論理と感性

多くの人に何かを知らせる、指示する、報告する、通知するなど、世の中にはさまざまな文章・文書が存在する。
しかし、その文面だけで趣旨を理解する・させるには無理がある。

その文章・文書の字ずら通りに理解すればいいというわけではない。
その文脈に込められた想いをくみ取れるかどうかが重要になってくる。

政府からさまざまな政策が打ち出され、各省庁・他方などに通知されるが、各担当者はその文字通りのことをしようとする。
そうすると応用が効かなくなり、必要なところに必要な物事が届かず、必要でないところに必要でない物事が届く。
トンチンカンな助成金や補助金はその類だろう。

文脈に込められた想いをくみ取るかくみ取れないかは国語力の問題ではない。
そこから何を感じ取れるかという感性の問題である。

感性のない人に説明するのは骨が折れる。
同じ感性の人を集めるか、同じ感性になるように育てるか、少々時間はかかるが、その方が結局楽で早い。

アメリカが得意な論理の土俵で相撲をとるのか、日本が元々得意だった感性の土俵で相撲をとるのか、いずれにしても戦う土俵が違うことを論理的に伝える術を日本が持って、こっちの土俵へ引きずり込まなければ、この混沌とした時代からはなかなか抜け出れないだろう。

マニフェストや地位協定の文言にとらわれず、どういう国にしたいか、するべきかという熱い想いが必要じゃないんですかねー。

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