2007年6月28日
見えない存在
昨日は、新社屋建設地の地鎮祭を執り行いました。
田舎育ちということもあり、何か事を始めるにあたっては、日柄とか儀式は気にして行う方だと思いますが、最近はそういうことにこだわらない人が多いらしく、儀式というより形式化しているようです。
「大安」や「仏滅」などの日柄を気にしたり、地鎮祭のような儀式をやっても、何も変わらないかもしれません。
結果的に何もなければ何も思いませんが、何か嫌なことがあった時に気にするかどうかだと思います。
科学的な考えからすると、何かあったとしても、そこに因果関係はないという結論に達すると思います。
風水とか占いもそうですが、あまり気にしすぎて身動きが出来なくなったり、頼り切って自分の意思が働かなくなるのは、「信じすぎ」「気にしすぎ」ということだと思いますが、先祖や見えない存在に敬意を払い、感謝の気持ちを持つということは必要だと思います。
そういう心の表れの一つに儀式もあるのだと思います。
見えない存在は頼りにしたりお願いする存在ではなく、感謝する存在なのだと思います。
一つ一つの出来事では因果関係は分からないと思いますが、数年間の出来事で見た時に、そういう気持ちでいるかいないかで、得られる結果は大きな差になると思います。
5年前には想像も出来なかった「今」という現実の出来事に、ただただ感謝するだけです。