歴史の背景にある真実
歴史は、時の権力者に都合がいいように意味づけされるというのは、よく聞く話である。
今という時を共に過ごしている隣の人が何を考え、何をどう解釈し、その人が発言したことや行動の本当の意味が理解できないのに、何十年、何百年前の人が言ったことややったことの真意が分かるわけがない。
かといって歴史を無視してもいいという訳ではない。
歪曲されている可能性もあることも加味して、その中にある真実と歪曲する必要があった背景なども含めて考えていくということが必要だろう。
昨日、久々に「ラストサムライ」を観た。
この映画と同じような感覚で印象深いのは「ダンスウイズウルブス」。
どちらも西洋の近代化を善とし、伝統を守ってきた民族を野蛮人扱いし、従わないものは排除する。
その根本にあるのは「お金」と「権力」。
そういう考え方が今でも根底にある。
近代化と先住民とまでいかなくても、人は人を外見で判断しがちだ。
みすぼらしいカッコをしている人とブランド物を身にまとっている人、軽トラックを運転している人とフェラーリを運転している人、そんな延長線上に人種間の差別もあると思う。
文明が進んでいるから人としての位が上ということではなく、お金を持っているから人としての位が上ということでもなく、白人だから人としての位がうえということでもない。
でも、人類が誕生して以来、そういうことが人の価値とされてきたのではないだろうか。
原油の高騰、株価暴落、政治の混沌、金融危機など、今までの価値観や意識を大きく変えるチャンスであり、旧体制にしがみついていたら淘汰されてしまうだろう。
人としての本当の価値は、ズバリ「愛」! 思いやり、優しさ、いたわり、慈しみなどの心で、いつでもどこでも誰にでも接しられるかどうか。
その「いつでも」の幅、「どこでも」の幅、「誰にでも」の幅が広ければ広いほど、人としての位が上にいくのではないだろうか。
いろんな時代のいろんな人の行いから、本当に感じなければいけないのは、人としての理想の「在り方」だと思う。
何をやったかではなく、どう在ったかが重要だろう。
今、大きく時代が変わろうとしている。
見せかけの「何か」に騙されずに「真実」「真理」を見極められる心の眼を大きく見開いていこう。