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2009年5月29日

かわら版(社内報)No48

四月後半からの新型インフルエンザ騒動が、今もまだ続いています。
最初のうちは、海外渡航者のみで空港で大掛かりな水際対策をしていましたが、空港の今は普通に戻ったようです。
海外渡航者以外の感染者が出てからは、各会社などに入る時にマスクが必要とか、関西地区でのイベントが中止になったとか、修学旅行や遠足などのキャンセルが相次ぐなど、相変わらず物々しい対応が続いています。

豚インフルエンザが発生したというと豚肉の買え控えが拡がり、鳥インフルエンザが発生したというと店から鶏肉が撤去される。
事故米が混じっているかもしれないというだけで、それを原料にした商品のすべてが撤去される。
なんとも妙な国民です。

今はちょっとしたことが大問題になります。
なぜでしょう?それだけみんな平和というか余裕があるというか暇というか、生きられること、普通に生活できることが当たり前だと思っているからでしょう。

ほんの四十年くらい前、テレビは白黒でした。
まだ一家に一台乗用車があるかないという時代でした。
我が家のトイレは外にあり汲み取り式でうんちをするとおつりがくるようなトイレでした。
子供の頃のクリスマスは大きな板チョコをもらえるのが楽しみでした。
外食なんて特別な行事みたいなものでした。
ケーキも誕生日の時くらいしか食べられませんでした。

一方、わが子の時代はというとテレビといえば普通にカラーテレビで一家に数台は当たり前。
車も一家に一台から一人一台へ。
その他、ゲーム・携帯電話などの便利なものはいっぱいあり、週末は外食、ケーキなんかいつでも食べたい時に食べられる。
簡単・楽が当たり前で、そうじゃない状況になると不平不満がでる。
たまの外食に喜べることと、外食が当たり前でその事に何のありがたみも感じないこととどっちが幸せなことなんでしょう。

当たり前と思っていることが増えれば増えるほど、不平不満が増えていきます。
当たり前のことを得られないことが不満になり、そうならないことを他人のせいにして人を責めます。

みんなが働く理由は、最初は「お金をもらうため」かもしれません。
生活するためにはお金が必要、だからそのお金を得るために仕事をする。
お金を得るために仕事をしているのだからお金をもらうのは当たり前。
世間の考え方からいけば、一日何時間×何日働いたからお金はこれだけもらえる。
そう考えるのが普通かもしれません。

でもお金を払う側になった時、あなたは何にお金を払いますか?
食事をする時、ウエイトレスや調理している人を見て「この人の年齢が幾つくらいで、多分結婚もしているから、一時間〇〇円くらいは必要だろう。そういう人が何人かいて自分が食事をするために何人が動いてくれているから〇〇円払おう」なんて思わないでしょう。
まず何を食べたいか、次に店の雰囲気や値段で選んで、食べ終わって自分が求めた通りの味と対応なら普通で、期待した以上なら満足して、期待以下なら不満になる。
そんなところではないでしょうか。

つまり自分がお客さんになった時は「価値」にお金を払います。
でもお金をもらう時は、働いた時間や労働量に対してお金をもらうのが当たり前になっています。

毎度言っていることですが、うちは「価値」に対してお金をいただきます。
お客さんがうちに期待する価値以上の対応をして、そのお礼に報酬をいただく。
お客さんに喜んでもらうこと、役に立つことをすることが仕事であり、その価値に対してあなたも報酬を得られる。
それが働く意味です。

色んなことを当たり前と思うようになった頃から、働くということに対して尊い気持ちもなくなりました。
いつもと変わりなく普通に働けるということは「有り難い」ことです。
普通で有ることが本当は奇跡的で難しいこと、だから「有り難とう=ありがとう」なんです。

まだまだ混沌とした世の中は続きます。
想像もつかない事も起こってくるでしょう。
どんな世の中になろうと気にすることはありません。
ただただ「今」「ここ」「その一瞬」に全力を尽くす。
目の前の人が喜ぶことをしてあげる。
それがあなたの仕事であり使命です。

「すべての人の笑顔のために、今を自分らしくベストを尽くす」という経営理念には、そんな想いが込められています。

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